上野公園スタディーズ レクチャー03
2018年1月23日
「Society」と「社会」の意味は違う?
公園をうまく使うために翻訳語を見直そう
文章構成:小林沙友里/編集:川村庸子
公共空間やそのベースにある社会について考える上で、明治初期に西洋から翻訳した概念のズレが
トラップになっているのかもしれない。
日本初の公園である上野公園を舞台に、歴史学者・木村直恵がその翻訳の歩みを紐解く。
〈社会〉〈自由〉〈平等〉〈人権〉〈民主主義〉……現代の日本に生きる私たちの暮らしにおいて重要なこれらの概念は、近代に西洋から輸入したもの。先人たちはこうした概念を翻訳し、共有することで、江戸時代から転換した新しい世界をつくってきた。言葉や概念に注目して近代を研究する木村は言う。「言葉や概念は想像力をかたちづくり、私たちがどのように世界に働きかけるかを規定しますが、これらは決して画一的なものではなく、それぞれの地域や文化において様々に展開してきました。それをどう受け入れ、時に誤解し、歪曲し、あるいは拒絶してきたかによって、それぞれの地域や文化における近代の性質、特徴が現れてきます」。そして驚くべき事実を述べた。「英語のsocietyとその翻訳語として明治初期に生まれた〈社会〉という言葉は、同じ意味ではありません。日本においてこの言葉はかなり特殊な使い方をされ、独自の発展を遂げてきました」。例えば、「社会人」という熟語は日本特有の表現で、西洋の言語でこれに相当する言葉はないという。
societyという言葉に日本人が出会ったのは蘭学や洋学の中で、早くて18世紀末。当時から〈交わる〉〈仲間〉〈ねんごろ〉〈組合〉〈社中〉など様々な訳語が当てはめられてきたが、その重要性が認識されたのは幕末だった。江戸幕府からオランダに派遣された留学生、津田真道(つだ・まみち)と西周(にし・あまね)は、societyを「互いに・共に生きる、養い合う道」を意味する〈相生養之道〉(あいせいようのみち)という訳語で捉えようとした。また、幕府が派遣する使節団に随行して何度も欧米に行った福沢諭吉は、大人と大人の付き合い、他人と他人の付き合いであるべきものとして〈人間交際〉(じんかんこうさい)と訳した。一方、アメリカに外交官として赴任した森有礼(もり・ありのり)は、日本語にできない概念であるためカタカナで〈ソサエチー〉とすべきだと主張した。そんな苦労を重ねて最終的に〈社会〉という言葉が翻訳語になるのは1875(明治8)年。上野公園が開園する前年のことである。
〈公園〉もまた、江戸時代にはなく、渋沢栄一や岩倉使節団など幕末以降に西洋諸国を訪れた人々が注目したものだった。そして1873(明治6)年、江戸時代以来の名勝旧跡を公園として整備する方針(太政官布告第十六号)が示されるなかで寛永寺の境内が公園に指定され、1876(明治9)年、上野公園が日本最初の公園として誕生する。しかし、社会主義者の河上肇(かわかみ・はじめ)は1914(大正3)年、エッセイ「鍵附の戸と紙張の障子」(『西欧紀行│祖国を顧みて』所収)で、西洋人は「公園を家として」おり、公園や社会を生活に密着したかたちで、公開的に上手に使えていると述べ、言外に、日本人は使えていないということを語っている。「彼らの発見に共通していたのは、西洋の人間関係の考え方やつくり方は東洋とは全然違うということ。要するに、公園や社会について考えることは、公共圏をどのように形成し、そこで人がどのようにふるまうべきかという問題とつながっているのです」。実際、日本でこれらの言葉がつくられた時期は、大勢の人がともにいる公共圏が形成された時期でもあり、パブリック・オピニオンのための新聞が創刊され、精養軒などのレストランが社交の場として開かれ、劇場や議会もつくられた。しかし半世紀も経たないうちに、本来の意義は見失われていたのだ。
そうした状況のなか、publicという概念の翻訳も簡単ではなかった。上野公園は行政府の命令によってつくられたものだが、当時この公園のことをある人が「官園」と呼んだという記録がある。日本語では〈公〉と〈官〉という言葉が類義語であるという側面があり、publicとofficialの意味が混同されがちなのだ。「〈公〉には為政者や役所を指す意味があり、それらを排除した意味は持ちにくい。にも関わらず、publicを〈公〉という字で翻訳できたことにする。それは、理解できたことにしてしまうということでもあります。日本は歴史的に翻訳大国で、古くは中国の言葉を輸入し、近代になると西洋の言葉を輸入してきたわけですが、輸入と翻訳を繰り返していると必ずズレが起こります。そしていったん翻訳語ができると、ズレが見えなくなってしまう」。気づかぬ間に概念のガラパゴス化が進んでしまうということだ。「まずは日本語世界を生きる私たちの考える癖のようなものをきちんと理解して、本来の趣旨とは全然違う方向に逸れていく可能性もあると自覚しておくこと。そうすることで、私たちは新たに、より普遍的なかたちで公園や社会について考え直すことができるのだと思います」
ブキャナン米大統領と謁見する幕府使節団 llustrated London News 1860(cf:Wikimedia Commons)
Photo by Akihide Saito
木村直恵(歴史学者)
1971年広島生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程単位取得終了。2000年から京都造形芸術大学専任講師。2003年から学習院女子大学国際文化交流学部専任講師、現在、同大学准教授。専門は、日本近代史・文化史。主な著書・論文は『〈青年〉の誕生─明治日本における政治的実践の転換』(1998年、新曜社)。「「開国」と「開かれた社会」」『現代思想・臨時増刊・特集-丸山眞男』(2014年8月、青土社)。「「社会学」と出会ったときに人々が出会っていたもの─日本社会学史の原点について」『現代思想・特集-社会学の行方』(2014年12月、青土社)など。