「上野の杜の物語」の始まり

上野の杜は世界でも有数の文化芸術の一大集積地ですが、もとは徳川家からこの地を与えられた天台宗の高僧・天海僧正が開山した寛永寺だった場所です。寛永寺は、天海さん(畏怖とともに親しみをこめて「天海さん」と呼ばせていただきます)に帰依した徳川家の増上寺と並び立つ菩提寺というイメージが強いのですが、もうひとつの姿として「江戸に生まれ育ってきた江戸前文化発祥・発信の拠点であり、それはつまり、世界から注目される文化芸術都市ブランドである現在の東京の源流」と言える存在であったのではないかとも思えるものです。
このような寛永寺開山にあたっての、天海さんのフィロソフィーやコンセプトとはどんなものだったのかとても興味があります。

[五十嵐] 一般的に寛永寺は徳川家の菩提寺という位置づけで見られることが多いのですが、創建の当初は天海のプライベートな思惑がかなり強く反映された場所であったと言われています。彼の構想をひと言で言うとまさにソフトパワーを重視した文化政策です。当時の江戸は、江戸湾の入り江に突如作られた新開地。徳川家がまったく文化的な蓄積がないようなところに文化的なモノコトを創造するというアクションによって、関東の住民に、さらには参勤交代で上京する全国の諸侯に対し、徳川家の威光を目の当たりにさせインプットしようという戦略的な意図が強かったのだろうと考えます。
では、実際にどういうことやったかというと、この地を当時の文化先進地である京都に見立てた。その発想がすごいわけです。
寛永寺の山号は東叡山といい、東の比叡山という意味です。比叡山には京都の鬼門塞ぎの役割があり、寛永寺にも江戸北東(=鬼門)の守護という象徴的な意味合いをもたせた。同時に、東北諸大名の侵攻からの最終的な防衛ラインというような軍事的な役割も与えられていました。
寛永寺の建立にあたっては、京都や滋賀(つまり、当時の圧倒的な文化先進エリア)の名所を次々に模倣していきます。
比叡山の後背にある琵琶湖は不忍池、その中にある竹生島を模して弁天堂、さらに清水観音堂は京都の名所である清水寺を模倣しています。他にも吉野の桜を移植するなど、江戸庶民が楽しみながら当代随一の高度な文化性を体験できるモノコトを上野に出現させ蓄積していった。本来であれば徳川家のプライベートガーデンにして良いような由来の場所に、だれでもが入園し楽しむ機会のある一大アミューズメントパークを、江戸城のすぐそばにつくっていったようなものです。
それは、先進的なモノコト、文化的なムーブメントを創るのは徳川家だという体裁を整え、目に見え手で触ることのできるインパクトのある形でアピールしていったということです。
言ってみれば文化政策というソフト戦略によって、徳川家の威光を江戸庶民へ、さらに日本全体に浸透させていく。これが天海の思惑だと思います。17世紀から始まった寛永寺のプロジェクトにより、18世紀、19世紀とかけて確実にその思惑は実現していきました。

時代が下って戊辰戦争が起こり、上野・寛永寺も戦乱の地になっていきます。伽藍の多くが焼失しましたが、その広大な境内は明治の新政府によって接収されました。明治新政府は、この地を無視できなかったのです。
江戸城は皇居となり支配者が変わっても、ほんの少し前まで江戸っ子であった東京市民には、「徳川様は、徳川家の菩提寺という特別な地で自分たちに楽しみを提供してくれていた」という記憶と崇敬が消し難く根強く残っています。なので、明治新政府も東京市民の旧政権に対するシンパシーをガラッと変えなきゃいけなかったわけです。
明治初期には、上野の山の用途について政府内でいくつものプランが提案・検討されています。陸軍病院にするなど、様々な構想が上がっては消えていく中で、日本では初めての試みとなる「都市の中の公園」にするという案が勝ち残ったわけです。そして、このプランのもとに新政府が実行したことは、前政権の江戸草創期に天海が計画し実行したことと、結果としてまさに同じだった...ということが、僕にはすごく印象深いところです。
天海が徳川の威光を示すために京都周辺の高度な文化的象徴といえるモノコトを再現してきたように、明治政府は、当時の文化先進地である西洋が生み出した最先端技術やアートを引用・再現し、人々の記憶を上書きしていく戦略を取ったということです。
上野の山(かつての寛永寺の境内)を西洋式近代都市公園として再生して、庶民を集めて内国勧業博覧会などの盛大なイベントを開催し、それが終わるごとに文化施設を次々に建設していく。帝国博物館(現在の東京国立博物館)、教育博物館(現在の国立科学博物館)、動物園...それらをどんどん整備しながら、江戸から東京へと人々の記憶を次々と書き換えていったのです。さらには、精養軒の誘致など鹿鳴館の飛び地のような場や機能を整備して、各国大使等の外国要人を招いた華やかな社交場としても活用し、上野の山はまさに文明開化のひとつの象徴として人々の記憶に刻まれていきました。本当に天海の戦略、目論見と同じですね。人々の記憶が上書きされても、天海が構想した上野の山の遺伝子は消去されることはなく、敵対者であった新政権にも繋がっていっているということがよくわかります。あらためて、江戸時代にこの場所に着目し文化政策を都市計画や政権の強靭な基盤構築の戦略として試行し実行した天海の先見性、そしてこの上野という場の力を感じます。

変遷し続ける上野-杜と街の近代史・外伝!

寛永寺は徳川家の祈祷寺として建てられたものだとしても、天海さん自らの私財も投じて、建築物や外構の設計や建造を行ったものでした。それゆえに、幕府官製の施設では実現することが困難だっただろうと想像できる「江戸庶民が本当に楽しみ、面白がって来訪し、高度な文化性を持ったモノコトを生き生きと吸収していく」、そして「自分たちの力と感性で『江戸前文化』という新しく優れた文化を創造していく」といった「アミューズメントパークであり、かつ、市民が先進的な文化に親しむ場」のような展開ができたのではないかと思います。
しかし現在の上野の杜は、『天海さんの上野の山』とはかなりイメージの異なる場所になってきているのではないかと感じることがあります。
重要な文化財やハイアートなどのすでに評価の確立した文化芸術の崇高なアイコンを展示し、保存、保管する場所というイメージが強くなっており、新しい文化芸術の創造・発進・発信拠点としての機能や機運が希薄なようにも感じるのですが。

[五十嵐] 明治前半に上野で3回開催された内国勧業博覧会でのプレゼンテーションは、まさに当時の庶民好みとは反対に、いわゆる「見世物小屋」のようなものを排除することを徹底したようです。
江戸時代の盛り場のイベントでは、虚実ないまぜの見世物小屋が大賑わいでした。そのセンセーショナリズムこそが、庶民にとっては面白くてワクワクし、興味や好奇心を沸き立たせるものなのですが、文明開化の象徴である上野公園の博覧会ではそのような前近代性を排除した。そうして、全国の素晴らしい工芸品や工業製品とか、仏像とか美術品であるとか、これらをいわゆる殖産興業の産品やハイアート、文化財という特別なコンテンツとして、称賛し、奨励していくという考え方を徹底して導入したのです。
これは、海外列強への見え方を重視した結果です。当時の明治政府は、不平等条約の改正という悲願のために、日本が近代国家であることを諸外国に示すことが最重要課題でした。そこでとにかく折り目正しい博覧会の場となることを、政府は上野の杜に求めたのでしょう。誰に向けた空間を作るのかといった意味で、確かに庶民を楽しませる、それによって徳川の威光を浸透させるという「天海の戦略」の方向性とは、だいぶ違うものを創ろうとしたとは言えるかもしれません。
面白いところなのですが、時を経て主催が政府から東京府に変わって開催された明治末から大正期の博覧会では、「見世物小屋」のようなエンターテインメントが結構復活してきます。
日清・日露戦争に勝利して不平等条約も改正され、世界の中でも列強と肩を並べようとするようなポジションを得られたと実感できる頃になると、近代公園として再編された上野公園のカルチャーシーンは、江戸時代と似た状況に戻っていったのです。

今の上野の杜の現状を見ると、(動物園などは少し違うニュアンスなのですが)全体としては、やはり重厚でちょっと構えて行かなないといけない、頭抜けて価値のある文化財や国際的に評価されているハイアートに興味がある人々がスタンダードなお客様ではないかと思われるものです。
つまり、特定の場所(ミュージアム等)へ特別なコンテンツを鑑賞しに行くといった明快な来訪目的を持った方々がメインユーザーではないかと言うことです。それが上野の杜の中では、人々は回遊しないというところにもつながっているような気もします。
上野の街に日々の営みとして当たり前のこととして来ている人たちが、すぐ隣に立地している上野の杜に足を伸ばそうとしない、また逆に、上野の杜を訪ねる人々は、上野の街になかなか足を踏み入れようとしないという現状も、訪れるのに「その目的を要求される」ような上野の杜の構造にあるような気もしてきます。

[五十嵐] 上野公園はコンクリートなどで舗装された人工的で堅牢な地面が多くて、全体が文化施設を繋ぐ通路になってしまっているようにも思えます。例えば日比谷公園とか代々木公園といった都内の大公園と比べてもかなり異質です。公園としてはとても重要な要素が欠けているのではないか。普通にイメージできる公園はもっと余白があり、「憩う」「時間を過ごす」という機能を提供しうる役割と構造を持つ場所です。一方上野公園では、池の周囲のベンチなどでのんびりしている人たちがたくさんいる不忍池を例外として、多くの文化施設の外側部分は各施設に行くための「通路」という性格が強くなってしまっています。

ここが評価の難しいところですが、それはある意味仕方なかったところもあるように思います。
理由は、上野公園が端的に危なかった、少なくとも怖いところだとイメージされていたから。それも、遠い昔の話ではなく戦後から結構最近までです。
これが上野公園(上野の杜)を特徴付けるもうひとつの側面だと思います。

私がイギリスに留学をしていた時に、上野公園と上野の街のことを話すと、ほとんどの人が怪訝な顔をすることに気が付きました。大英博物館に匹敵する博物館やナショナルギャラリー、ロンドンZOOのようなフラッグシップ的な動物園、さらに、国立のアートカレッジもある。そこにキングスクロスみたいな「北の玄関口」となる駅(ハリーポッターに出てくるターミナル駅)、そしてアメ横というとても活気のある市場の様な商店街が歩ける範囲に密集している。
上野エリアのさまざまな都市的要素や機能をロンドンのどこかに例えて話して、それらが半径500m以内にすべてあるということになると、もうみんな「何それ?」という状態になる。そこで私は、初めて上野が世界でも特殊なエリアであることを認識しました。それこそが上野の特異な豊かさであり、強みであり、難しさなのです。
戦後の上野は本当に治安が悪くて危険地区とみなされていました。上野公園には娼婦も多く、植え込みの暗がりで客引きをしているような場所でした。警視総監が巡見に来たときに男娼に殴られて、夜間立ち入り禁止にしたというエピソードも残っています。その後、高度成長期に入って、上野駅に集団就職列車が入ってくる。もちろんその後の東京での行き先が決まっている人はいいのだけれど、何か手違いがあったりしたら上野公園で夜を明かすことが多くなります。さらに、1990年代初頭には、イラン=イラク戦争が終わって大挙して来日したイラン人出稼ぎ労働者のたまり場となり、グローバル時代の幕開けを告げるカオスな光景として大きく報道されました。
実際、天海の構想というわけではないでしょうが、江戸時代も実は上野の山に犯罪者が逃げ込むことがしばしばあったそうです。ここは寺社奉行の管轄なので、入ってしまえば、町奉行の追っ手から逃れられる。寛永寺はそういう意味で逃げ場、アジールという機能もあり、それが上野公園ではずっと続いていくのです。
国内の貧しい地方に鉄路が伸びている「北の玄関口」であり、スカイライナーの開通以降は「空の玄関口」でもある上野駅があり、周囲を人口稠密な下町に囲まれている上野公園は、どうしても大きな災害や社会変動の中で住居を失ったり、生活が不安定な人が集まってきたりする地理的構造を有しています。2000年代以降の東京都の自立支援事業などによってホームレスは政策的に少なくなりましたが、2000年前後までは結構そういう状況でした。
なので、上野公園って結構怖いところだと思われていた。これが上野公園のもう一つの物語なのです。
上野公園のこのロケーションはやはり特殊です。留学時代に理解されなかったように、国家的な施設を作るにしてはちょっと変わったところにあるのですね。ただ、こうした環境の中で生まれたアジール機能も、歴史的には上野公園に欠かせない機能だったし、忘れてはいけない歴史の一側面。そういった状況下にあった上野公園の居心地をよくするっていう発想自体、長らくなかなか持てなかったのだと思います。それがようやく現在に至って、ようやくどのように憩える場所にしていくかっていう議論が生まれる状況になってきたのではないでしょうか。

こうした通常ではありえない立地環境を考えると、上野公園をどう運営するかというテーマは、「多様性のマネジメント」という非常に現代的な領域にまで及ぶと考えています。
ニューヨークのど真ん中に、公共空間再生のお手本みたいに言われているブライアントパークという公園があります。ここは現在では、カフェが建ったりイベントも行われたりと、居心地良いスペースになっていますが、1970年代~80年代前半まではホームレスだらけで、ドラッグディーラーとジャンキーが常にいるような場所で、観光客どころか周囲のオフィスワーカーも全く足を踏み入れたがらないところでした。
そこに「BID(Business Improvement District)」という制度が導入され、周囲の企業や不動産所有者から賦課金を徴収して公園に投資し、その投資によってつくられた商業施設などからの収入をさらに再投資し、という形で再生していったのが世界的に有名なブライアントパークのストーリーです。
ただ、このストーリーを批判的に捉える人たちも一定数います。公園再生の過程で、ホームレスの排除が行われて夜間には閉鎖されるようになり、商業施設の導入が進んだことで、ブライアントパークは排除的で非公共的な空間になったというのです。確かにその主張にも一定の理はありますが、「じゃあ70年代のブライアントパークは公共的で、多様性に富んだ場所だったのか?」ということを考える必要があります。ほとんどの人にとって足を踏み入れることが躊躇された1970年代のブライアントパークより、2000年代以降のブライアントパークの方がはるかに観光客もオフィスワーカーも、老若男女問わずいろんな人が集う憩いの空間になっていることは誰も否定できないのではないでしょうか。
ここが多様性や公共性という考え方の難しいところです。空間が公共的であるためには万人に開かれている必要がありますが、一切の排除や管理を否定して、ホームレスや犯罪者も含めたあらゆる多様性をすべて包摂すると、現実には多様な人たちが来れない空間になりかねない。
そこがすごく重要なところで、多様な人々が訪れる公共性を保つためにこそ一定の管理をしなきゃいけないっていうパラドックスがある。私はそれを多様性のマネジメントと呼んでいます。もちろんそれは、公園に野宿せざるを得なかった人々を単に排除するだけではなく、いかに社会的に包摂していくかという施策とセットであるべきですが。

アートが包み込むことができる「多様性」を、いま上野の杜の現実論として考えてみる

おっしゃる通りですね。経済学の分野の議論にも通じるところがあるように思います。この問題は、アートの領域以前に、宇沢弘文先生が提唱された「社会的共通資本」のような、社会全体の構造を俯瞰できる基盤の上で考えなければならない問題のようにも思えます。
文化芸術と言う(普遍的ではあっても)私たちのリアルワールドの全体を構成する一領域の枠組みのなかで、すべてのものことを単一の構造で包摂できてしまうようないわば「神のコンセプト」でもって多様性を捉えてしまうと、現実社会では「逆排除や逆差別のバイアス」がかかるのは必然のように思えます。

[五十嵐] 先ほど言ったように、その特異な立地特性を考えれば、歴史的にみても上野公園という空間は適切なマネジメントなしではどうしても乱れていく場所です。
それをすべてコンクリートで覆いつくすなど、ハードで解決しようとすると結局居心地の悪く、誰も喜ばない空間になってしまう。やはり、ある程度手をかけて、上野公園ではどのように多様性と公共性を確保していくのが望ましいのか丁寧に議論しながら、マネジメントしていかないとならないと思います。
今さまざまな政策の施行や社会的・人口学的な要因があり、ホームレスの方も少なくなって、ようやく「上野公園を居心地良くしよう」っていう機運が初めて生まれてきたのではないでしょうか。多分、30年前に上野公園の居心地をよくすると言っても、「はあっ?」って言われたと思います。「そんなことしたら、どうなるかわかっているの?」って。
そういう意味では、上野公園のパラダイムシフトは、今ようやくなんだと思うのです。ただ、ひとつの「山」全体をなしている上野公園の立地と規模を考えれば、ブライアントパークのマネジメント手法がそのまま可能だとは思いません。それに、歴史的・構造的に寛永寺の参道だった街との不可分な連続性も重要なポイントになります。江戸時代の黎明期の大プロデューサーだった天海なら、令和の上野にどんな空間を作ろうとするだろうかと、今こそ想像してみることが必要なのかもしれません。

アートっていうことを考えていくと、私自身も含めて、いわゆる生活者やインバウンドの方々(この方々ももちろん生活者です)が持っている文化芸術に対するニーズとかウォンツの多様性に対応しようとする視点と態度が、上野文化の杜には求められると思っています。このニーズやウォンツは、市場としてはとてもシャイでナイーブなサインしか発していないので、なかなか見えづらいものかもしれませんが、それでもこのサインをきちんとキャッチして答えていくことがミッションだと感じます。生活者の日常のメインステージは「街場」であり「ストリート」です。ですから、そういう点で、街や通りから「新しいアートがポップアップしてくる」っていうのはとても自然で、合理的かつ効果的なアクティビティだと考えます。そして、先ほどからのテーマにある「多様性」を本当にナチュラルに包摂できるなって言う感覚があります。この様なアクティビティも、上野の杜と街が一緒になって考えてみたいと思います。

[五十嵐] 上野のハイアートの世界は、残念ながら「現代」が弱いですね。コンテンポラリーアートの場は六本木、青山、木場、天王洲などに取られてしまっている。その分野が不在なのが、上野エリアの残念なところです。
一方で藝大にはコンテンポラリーアートを学ぶ人が多くいて、しかし、やっぱりこの人たちが発表場所として選択するのは銀座だったり、港区だったり、ベイエリアであったりっていうのが現状で、お膝元の上野は選ばれてこなかった。
そもそも上野公園の美術館に来た人が楽しめるような場所が、上野の街の中になかったじゃないかって言われたら、そうかもしれないと言わざるを得ない。じゃあ、その美術好きな人がアメ横みたいなところを好まないかというと、決してそんなことはないのです。アートピープルがああいう猥雑な場所を嫌いなわけではない。
コンテンポラリーアートが猥雑な中にある、もっと言えば上野の猥雑な空間の中でこそのサイトスペシフィックアートという形を作れれば、それこそがアートと上野の幸福な出会いであり、どの場所とも代えがたい上野の強靭な個性になると考えています。
でも藝大生の方にも、上野の街をよく知らないという人たちも多くて、上野駅から学校に通っているだけで、上野の街のなかまで彼らが行くことはほとんどないのです。そうすると作品発表するときにも、上野って発想にならないのも当然です。
それは上野という、強力な潜在力を持つ街で才能を磨いている彼らの立場からしても大変もったいないことです。
一方で街の側からみても、上野の杜にやって来たアートが好きな人たちが、上野の街にもアートが溢れているなら、そっちにも行ってみようと回遊してくれると思うのに、残念ながら今はそれがない。
これは上野の街のポテンシャルとして、もったいないと感じるところでです。
ある上野の経営者が、「アートが上野の地場産業!」ということをおっしゃっていて、本当にその通りだと思いました。これだけ文化芸術の集積があって、かつ芸術家の卵も沢山いる、しかも毎年毎年、優れた才能が輩出されていくという状況を目のあたりにしているのだから、彼/彼女らをどう上野で育て、愛着を持ってもらうかですね。例えば、今、上野の中心部でもビルの上層階は結構空きスペースあるので、そういうところをギャラリーにするというのも“あり”だと思います。アメ横センタービルなんかめちゃくちゃ面白いと思いますが、実際に上野の旦那衆と若手アーティストを繋ぐ活動を続けてきた藝を育むまち同好会が、3階の空きスペースで企画展をする試みを始めています。
あんなカオティックなビル、東京でも他にないから。上野の街のど真ん中にある象徴的な空間をアートスペースとして利用し、そこが目的地になってゆくのはまちづくりとして圧倒的に面白いプランです。

アートが「もうひとつの上野」をクリエーションするとき

いわゆる商業ビルというカテゴリー、特に、都市型商業施設は、今、どんどんしんどくなってるはずなんです。とにかく家賃は高いし、その家賃を払えるほどの集客パワーは(ビルも店舗も)持ちにくくなっている。ただ、考え方によっては再生の方法や手段、そして可能性は十分にあると思っています。
アートを事業資源としたこれからの時代の新しいビジネスモデルを、上野の街と一緒に本気で考えてみたいと思っています。

[五十嵐] もちろんアートって、そんなにそれ自体が稼げるものじゃないですから、ビル運営会社やオーナーとしても、まあフィランソロピー的な観点がどうしても大きくなると思いますが、上野の場合はほかの街よりアートによる集客という戦略に必然性があるというのが一点目です。そもそもアートが好きな客層っていうのが上野駅で乗り降りするはずなのに、それを街がつかめていなかっただけなわけですから、そこには伸びしろがあるということです。
それからもう一つは、作品の(ひいては才能の)発表場所としての可能性。
本当は、この街を活躍の場に選ぶ魅力が上野の街にはすごくあるのに、それが全く発想にのぼってこなかったアーティストがたくさんいるということです。

今どんな街でも、あるいは商業施設でも、アートとコラボレーションして集客を図ろうとするアクションがどんどん増えてきています。
しかし、そのような社会的ムーブメントの中にあっても、来街客とアーティスト双方が混在し、交流し、行動することができる条件が与えられている上野を目の当たりにしたとき、アートを取り込んだまちづくりにこれほどの可能性と競争力を有する街は、東京でも上野をおいてほかにないという思いを抱きます。
そうしたアートをめぐる上野の潜在力に関しても、ぜひ杜と街でと一緒にディスカッションして、どんどん新たな企画を仕掛けていきたいですね。

インタビュアー:上野文化の杜事務局長/岡部隆宏
撮影:滝本英子

五十嵐 泰正

筑波大学 人文社会系 教授。
上野まちづくり協議会事務局アドバイザー、ストリート・ブレイカーズ代表、福島県産農産物等流通実態調査検討委員など。
東京都・上野や千葉県・柏で、まちづくりに取り組むほか、福島県の農水産業をめぐるコミュニケーションにも関わる。
主著・編著に『上野新論』『原発事故と「食」』『常磐線中心主義』『みんなで決めた「安心」のかたち』『労働再審2 越境する労働と<移民>』など。