国際芸術都市UENO 〜文化の花ひらくまち〜

上野駅からすぐ、通称「上野の山」と呼ばれる丘陵部につくられた上野公園。1876年(明治9年)5月に日本初の公園として開園して以来、文化芸術の中心地・盛り場として発展してきました。現在では博物館や美術館、動物園、芸術大学など、多くの重要な文化施設がひとつの公園に集まる、世界でも類を見ない珍しいエリアとなっています。開園から140年にわたる歴史を紐解いてみると、西洋文化を日本に輸入する際の重要な文化の拠点として機能し、震災と戦災という2度にわたる荒廃を経ながらも、そこにはいつも、公園の文化を大切に守ろうと奔走する、上野を愛した人々の姿があったのでした。上野の歴史を知ることで、公園の散歩がいつもより実り豊かなものになるかもしれません。

1876年(明治9年)
日本初の公園、紆余曲折を経て誕生

「上野清水ヨリ不忍遠景(田中幸太郎氏蔵)」

江戸時代から東叡山寛永寺の敷地として、広大な自然を残していた上野の山。花見の名所として庶民から親しまれてきたこの場所が、日本初の公園として登録されたのは1876年(明治9年)5月のこと。しかし、その裏側には紆余曲折が隠されていました。

明治9年5月9日 上野公園開園式にご臨幸の図

1872年(明治5年)に兵部省は寛永寺の敷地を陸軍病院、陸軍墓地の用地として決定しました。しかし、これに猛反発をしたのがオランダ人軍医・ボードワン博士。彼は、自然豊かな上野の山を見て、「学校や病院を建てるのは途方もない謬見(びゅうけん)である」と大反対。政府に公園建設を働きかけました。彼の尽力が、病院建設の決定を翻し、現在まで続く上野公園を生み出したのです。

この功績をたたえ、1973年(昭和48年)、公園内に彼の銅像が設置されました。しかし、これには後日談があります。なんと、設置後に、銅像の顔がボードワン博士の弟のものだったことが判明。2006年(平成18年)、急遽本人のものにつくり変えられるという珍事件が起こったのです。

1877年(明治10年)〜1914年(大正3年)頃
「ものづくり日本」の礎となった、内国勧業博覧会

第1回内国勧業博覧会 (田中幸太郎氏蔵)

明治に入り、近代化による産業革命の波が一気に押し寄せました。上野公園では、国内の物産開発、産業育成のために1877年(明治10年)、「第1回内国勧業博覧会」が開催されます。全国から84,000品あまりの品々を集めたこの博覧会には、当時最新の技術であった風車、旋盤、織機などが登場しました。記録によれば、入場者数は46万人を数えています。

第2回内国勧業博覧会(星野平次郎氏蔵)

さらに、1881年(明治14年)に開催された第2回の際には入場者数は倍近くの82万人に膨れ上がり、第3回(1890年・明治23年)では、東京電燈株式会社(現在の東京電力)が会場内に日本初の電車を走らせたことが話題になりました。

第3回内国勧業博覧会において東京で初めての電車を運転

東京勧業博覧会の第二会場に出現した船滑り(ウォーターシュート)

第4回目以降、「内国勧業博覧会」の舞台は大阪や京都に移りましたが、上野公園ではその後も「東京勧業博覧会」(1907年・明治40年)、「東京大正勧業博覧会」(1914年・大正3年)が開催されており、この際には不忍池にウォーターシュートが出現したり、上野公園の台地から不忍池まで日本初のエスカレーターが設置されます。

東京大正勧業博覧会に出現したエスカレーター 

上野は、日本の「ものづくり文化」の最先端を行く土地だったのです。

1877年(明治10年)〜1922年(明治35年)頃
日本を支えた芸術家たちと近代化が生んだ多様な文化施設

明治後期の上野動物園入口

「文明開化」と言われた明治時代は、世界中からさまざまな文化を輸入した時代です。1877年(明治10年)に国立科学博物館の前身となる「教育博物館」が開館、1882年(明治15年)に東京国立博物館の前身となる「博物館」が内幸町から移転、1887年(明治20年)には岡倉天心によって東京藝術大学の前身となる「東京美術学校」が設置され、横山大観をはじめ日本を支えた芸術家たちを輩出しました。1906年(明治39年)には「帝国図書館」も設置されるなど、上野公園には近代国家を支える文化施設が集約されました。さらに、この時代には「上野動物園」(1882年・明治15年)や、高村光雲による「西郷隆盛像」(1898年・明治31年)など、今に続く上野のシンボルが早くもつくられていきました。

明治25〜6年の上野動物園

西郷隆盛像

明治維新から50年以上をかけて文化が集積した上野は、近代化の中心地となりました。しかし、そんな上野を、悲劇が襲います…。

1923年(大正12年)
当時の記録に「地獄絵図」と記された関東大震災

1923年(大正12年)9月1日、東京をM7.9と推定される大地震が襲いました。105,000人あまりが死亡したこの震災によって、当時の本所区(現・両国周辺)、浅草区、下谷区(現・上野周辺)などの下町には甚大な被害が及びます。地震による倒壊や火災から逃れるために、被災者たちが選んだのが延焼の可能性がない上野公園でした。

西郷どんはびくともせず、人探しに一役買った

震災直後、西郷隆盛像は、尋ね人を探すたくさんの張り紙でびっしりと覆われました。公園内には仮設住宅1万棟が建設され、配給所や託児所、病院なども設置。人口が過密する大都市で、誰もが防災拠点の重要性を実感した瞬間でした。

1924年(大正13年)〜1940年(昭和15年)頃
復興の象徴としての上野

帝都復興祭記念 市内の光景(東京都立中央図書館蔵)

震災から6年、東京市内では靖国通りや昭和通りなどが整備され、震災の傷跡から立ち直っていきます。これを記念して、1930年(昭和5年)に行われた「帝都復興祭」は、芝・増上寺を起点として行われたパレードの終着点を、上野公園に定めました。震災によって、すべてを失った人々は、人で賑わう上野の様子を見て、復興を実感したのです。

昭和2年、東洋で初めての地下鉄開通。乗車賃を入れると入口が自動的に開く近代的な改札だった

昭和初期は、日本で初めての地下鉄が上野〜浅草間に開通するなど、文化の爛熟した時代。上野公園内にも、1926年(大正15年)に日本初の公立美術館として「東京府美術館(現・東京都美術館)」が開館。こけら落としとなる展覧会は『聖徳太子奉賛美術展覧会』でした。1931年(昭和6年)にはネオ・ルネサンス様式の近代建築による「東京科学博物館(現・国立科学博物館)」が天皇陛下を招いて開館するなど、文化の中心地としての色合いを強めていきました。しかし、一時の鮮やかな歴史は、戦争によって再び暗黒の時代へと塗り替えられていきます…。

1941年(昭和16年)〜1945年(昭和20年)頃
戦争が上野公園から奪ったもの

戦争の重苦しい雰囲気は、上野公園をも例外なく襲いました。1943年(昭和18年)、本土空襲に備えた殺処分令を受けて、上野動物園ではゾウ、ライオン、トラ、クマ、ヒョウなどの猛獣を処分します。この悲劇的なエピソードをもとに書かれたのが、土家由岐雄は童話『かわいそうなぞう』でした。また、戦時中の上野公園には高射第1師団司令部が置かれ、不忍池も水田に姿を変えました。戦争は、命だけでなく、文化や、景観をも奪っていったのです。東京大空襲においても大勢の避難民・罹災者が、公園内の防空壕や空き地に避難しました。先の関東大震災同様、上野公園は防災空地としての役割を充分に果たしました。

1946年(昭和21年)〜1954年(昭和29年)頃
荒廃する上野を守った人々

青空市場が各所に出現

空襲によって、再び上野の街は荒れ果てました。戦後、上野には闇市ができあがり、現在のアメ横へと発展していきます。食料を求める人々が増加していく一方、治安は悪化の一途をたどり、浮浪児やパンパンの数も増え、暴力事件も頻発しました。

明治21年頃の不忍池

そんな上野を、元通りの憩いの場に戻そうと尽力したのが、上野観光協会の前身組織である上野鐘声会。荒れ果てた上野の山を回復させるため、1,250本の桜の木を植林して景観を蘇らせ、水田として利用されていた不忍池を、元通りの姿へと戻します。上野公園が戦後の混乱期を乗り超えることができたのは、上野公園を愛する人々の存在があったからこそだったのです。

1955年(昭和30年)〜1972年(昭和47年)頃
モナリザ、ミロのビーナス、そしてパンダ。高度経済成長と芸術文化の隆盛

『ミロのビーナス展』の行列©朝日新聞社

昭和30年代、上野駅は北陸や東北から集団就職でやってきた人々の玄関口となります。広小路口にある「あゝ上野駅」の歌碑は当時の時代の雰囲気をありありと彷彿させてくれます。そんな上野駅中央改札口で人々を見下ろしたのが、1951年(昭和26年)、洋画家・猪熊弦一郎によって描かれた壁画『自由』でした。不安と希望で胸を一杯にした若者たちにとって、この作品は初めて触れる東京の象徴だったのです。

そして、公園内にも芸術の波が押し寄せます。1954年(昭和29年)、ル・コルビュジエの手によって「国立西洋美術館」が開館。この建物は、2016年現在、各国にあるコルビュジエ建築とともに世界遺産へ推薦の動きを見せています。また、コルビュジエの弟子である前川國男は、師の建物の向かいに「東京文化会館」を建築(1961年・昭和36年)。庇の高さを合わせたり、窓枠の配置を西洋美術館前庭に合わせるなど、師の建築との調和が意図されています。少し遅れて、「上野の森美術館」は1972年(昭和47年)に開館しました。

経済発展に従って、諸外国との文化交流が盛んになり、世界中の至宝が上野に集まるようになったのもちょうどこの頃です。国立西洋美術館で1964年(昭和39年)に開催された展覧会『ミロのビーナス特別公開』には38日間の会期中に83万人が来場。見物客の行列は、西郷隆盛像の下の公園入口まで続いていました。

1965年(昭和40年)に東京国立博物館で開催された『ツタンカーメン展』には129万人、1974年(昭和49年)の『モナリザ展』には150万人と、芸術を求める人々が上野に殺到したのでした。

日中復交記念 パンダ大使のランランとカンカンが来日(東京動物園協会提供)

極めつけは日中国交正常化記念事業として1972年(昭和47年)に上野動物園に来園したパンダのランラン・カンカン。日本中に空前のパンダブームを巻き起こした2頭によって、上野=パンダという新たな象徴が生まれました。

1998年(平成10年)〜2016年(平成28年)
日本文化の中心地へ

時代が平成になっても、上野公園には「法隆寺宝物館」(1998年・平成10年)や「東京国立博物館平成館」(1999年・平成11年)、「東京藝術大学大学美術館」(1999年・平成11年)、「国際子ども図書館」(2000年・平成12年)といった施設が次々と開館し、文化拠点としての価値は高まっていきます。東京都美術館は2012年(平成24年)にリニューアルオープンし、噴水広場にはスターバックスやパークサイドカフェなどの飲食施設が整備されました。老若男女、国内外から訪れるさまざまな人々に癒しを提供する場として、上野公園は今も変貌を遂げているのです。

近年も、上野では人気を博す展覧会が相次いでおり、東京国立博物館の『阿修羅展』(2009年・平成21年)には95万人、上野の森美術館の『ツタンカーメン展』(2012年・平成24年)には115万人が詰めかけたほか、『井上雄彦 最後の漫画展』(2008年・平成20年)、『進撃の巨人展』(2014年・平成26年)には普段、美術館に馴染みのない人々も多数来館しました。

開園から140年にわたる上野の歴史を改めてたどり直すと、近代化・文明化の中心地でありながら、幾度となく危機が訪れていることが見えてきます。その際に、上野を支えてきたのは、自然や文化をこよなく愛し、上野の魅力に気づいた人々でした。そんな先人たちの存在に思いを馳せながら、上野を散策してみてはいかがでしょうか。

[参考文献]
『上野公園へ行こう』浦井正明(岩波ジュニア新書)
『上野公園とその周辺 目でみる百年の歩み』上野観光連盟
『上野繁盛史』上野観光連盟
上野動物園ホームページ
国立西洋美術館ホームページ